日中ボランティア協会成立二十周年纪念会『共生・愛・和平』にて登壇しました。

2026年2月15日(日)に北トピアにて開催された、日中ボランティア協会設立20周年記念会『共生・愛・和平』のシンポジウムにおいて、当研究所の渡貫諒および文捷が登壇いたしました。
当日の発表資料は、下記よりご覧いただけます。

※本資料は口頭発表用に作成したものです。引用・転載・二次利用はお控えくださいますようお願い申し上げます。

【渡貫発表原稿】

 一般社団法人日本産業イノベーション研究所の渡貫です。憲法、国際法を専門とする研究者であると同時に、行政書士など実務も行っています。本日は、日中ボランティア協会20周年という節目の年に、こうした機会をいただき、とても光栄に思います。また、これまで20年もの間、一途の信念を持ち、ボランティア活動を続けてこられた張会長や会員皆様お一人お一人のご尽力に、改めて敬意を表したいと思います。

さて、本日は直近の選挙情勢も踏まえつつ、日本における在留外国人の現状と展望についてお話しします。昨今、地方選挙や国政選挙で、しばしば、いわゆる「外国人問題」が争点になっており、選挙結果に対し、色々な感情や戸惑い、あるいは諦観にも近い感情をお持ちかもしれません。深い印象を残したのは、張会長が昨年12月に企画したシンポジウムにて、あるメディア関係者が発した質問です。その質問は、ネット空間も含め、現状の日本社会で在留外国人はどうすればよいのか、を問うものでした。研究者もこれまで十分に応答してこなかった問いですが、当事者だからこそ発されたその質問に正面から向きあうことは、移民研究に従事する者としての責務に思われました。魔法の呪文のような安易な回答はありませんが、日本社会で「外国人」が「問題化」させるに至った思考構造の分析を通じ、対応すべき事柄は何か、そしてそれにどう対応すべきかにつき、何らかの示唆をお示しできればと考えています。

そこで、分析の鍵となるのが、対中感情、ポピュリズム、排外主義の3つの概念です。第一の対中感情ですが、現状は大変厳しい状況であることはご承知おきかと思います。昨年実施された複数の世論調査でも、国民の7、8割以上が中国に対して親しみを感じないと回答しており、これは諸外国と比較しても高い割合でした。いずれの調査も、高市首相の台湾問題を巡る発言に端を発する日中関係の悪化以前に実施されたものであり、急に風向きが変わったわけでもありません。もっとも、対中嫌悪ともいえる感情は、日清戦争以来継続して見受けられ、近代日本が向き合うべき課題でもありました。対中感情を歴史学の観点から検討した研究(金子 2025)は、明治期から昭和前期にかけ、子供を含む一般人が目にする大衆メディア媒体が、否定的な感情をあてがう「娯楽コンテンツ」として、同時代の中国・中国人を消費してきたと指摘します。この娯楽としての性格が、「普遍の娯楽」とも称される悪口と結合し、中国を風刺、嘲笑の対象にしたわけです。その発端は、日清戦争や日中戦争による対中敵対感情ですが、直接交戦中ではない間も、中国に対する批判的な感情は市民に維持され、中国を含む時事問題に言及する際も、中国への否定的な描写は続きました。敵対感情よる相手への否定的評価は、直接的な敵対感情が終結したあとも、何かのきっかけで繰り返し再生産されるのです。そして、慎重な比較が必要ですが、ネットを含むメディアで、中国を娯楽コンテンツとして消費する傾向は現在も見受けられるように思います。

もっとも、こうした中国関連のコンテンツの多くは、感情のはけ口や物珍しさの対象として中国を扱う面は否めず、必ずしも現実の中国との接点を増やすわけではありません。むしろ、日本人の直接的な中国経験は極めて少ない現状です。調査(園田 2025)によれば、最も身近な中国体験ともいえる在日中国人の友人、知人は「いない」という回答が、また、「中国を訪問したことがない」という回答がいずれも大多数でした。つまり、日本人の否定的な対中感情は、在日中国人の方との交流や中国訪問など実体験からではなく、コンテンツ作者者のレンズを経由した間接的で抽象的な中国像により形成されたといえます。強調すべきは、こうした中国像を作成したのは日本人側だということです。もっとも、ネット上を含む多くの中国関連コンテンツに触れているはずの若者の対中感情がその他世代と比べ良好な背景には、日本在住の中国人の知人、友人の存在があるようです。中国を直接訪れた経験は少ないにも拘らず、日本国内での中国経験である在日中国人の方との実際の交流が、娯楽化された対中感情を一旦脇に置き得ることは示唆的です。事実、中国に好意的な方にきっかけを尋ねたところ、在日中国人の方々との交流を挙げる方が複数いました。

ここまでの話であれば、交流を増やすことで対中感情が改善するということになりますが、問題を複雑化させているのは、昨今日本国内で噴出する在留外国人全般に対する排外主義的な感情です。ここからは第二のキーワードのポピュリズム、第三のキーワードの排外主義を検討していきます。

昨年の選挙で、排外的な主張を掲げた参政党が躍進したことは、これまで欧州型極右ポピュリズムは日本では台頭しにくいと考えられてきたこともあり、日本にもついに排外主義的ポピュリズムが到来したのかと驚きを持って捉えられました。ポピュリズム自体は新しい現象ではなく、大衆への人気政治という意味では、むしろ産業構造の転換に合わせ、まるで近代民主政に影のように寄り添ってきました。歴史的には、ポピュリズムの高揚はいくつかの周期があり、19世紀から20世紀の工業化への反発を伝統的な第一波とするなら、20世紀後半、都市中間層の不満を受け、新自由主義な政治改革を訴えたのを第二波、そして、21世紀に入り、加速するグローバル化がもたらす諸問題に対する反発を第三派と分類できます。欧州型極右ポピュリズムは第三波に分類でき、その特徴は、構成員の中で誰が人民の声を代表するのかを問うポピュリズムと、自集団から外れる者を排斥する排外主義とが結びついている点です。両者が親和性を持つのは、自分たちのみが人民を代表するというポピュリズムの反多元主義的で線引きが、排外主義の敵対さを後押しするからです。本来、誰が、どこまでが自分たちの範囲かという問いは極めて複雑で曖昧な問題です。この境界線を過度に単純化する反多元主義的な論法が有する危険性は強調されるべきです。

他方、ポピュリズムによるエリート批判は、これまで周縁化されてきた声を集め民主制を活性化する側面があるのも事実です。ポピュリズムは「しばしば正しい問いを発して間違った答えを出す」(ミュデ・カルトワッセル 2018)との評価は、ポピュリズムに対する政治学の困惑を端的に示しています。それでは、正しい問いとは何を意味するのでしょうか?多くの論者が述べるのは、既存の政治が同質化する中、政治が人々の不満を取り残したと感じる感情です。昨今の「外国人問題」との関係では、日本の既存政治は一貫して、グローバル化や人口減少に対応するため、日本の実質的移民受け入れは不可欠だとしています。これに対し、社会変化への漠然とした不安感など、やり場のない感情を抱く人は少なくないはずです。こうした感情は、人々が在留外国人と交流する過程で生じるわずかな不満を契機としつつ、既存政治の決定に対する違和感へと結びつきます。欧州型極右ポピュリズムは、こうしたもやもやした感情に目をつけ、既存の政治が、産業界の言うまま移民政策を推し進め、価値観の相違や社会保障の負担、治安悪化を心配する人民の声には耳を傾けていない、という対立構造を煽り、支持を得ようとするわけです。

他方、直近選挙で大勝した高市政権ですが、外国人政策に関しては、その多くを前政権から引き継いでいます。昨今の外国人厳格化は必ずしも高市政権独自のものではなく、むしろ、ヨーロッパで見受けられるのと同様、既存政党である自民党が、ポピュリズム政党からの批判をうけ、継続的に政策の一部修正した結果です。事実、博士学生支援奨学金の支給対象を日本人に限定し、また制度批判が噴出した経営・管理ビザの厳格化を行ったのは、参政党などの躍進に危機感を持った石破政権です。税や社会保険料の不払いを理由とする永住取消を制度化したのは岸田政権です。今回の選挙期間中、ポピュリズム政党側が、外国人受け入れを継続する自民党を批判し、「自民党に騙されるな」と叫んでいたことは、この文脈で理解される必要があります。そのため私は、高市首相の人気は排外主義的ポピュリズムの高揚とは言い切れず、むしろ「自民党をぶっ壊す」で人気を集めた小泉純一郎元首相に近い、日本的しがらみを断ち、思い切った政治、経済改革を進めそうな人物に人々が熱狂する政治家のアイドル化現象だと考えています。近代日本の歴史が示すように、こうした熱狂の危険性は無視できませんが、ここで重要な事は、既存政治と日本政治の革新を対置する論法は、反グローバル主義の第三波ポピュリズムとは根本的に異なるということです。

私がなぜこの差異にこだわるのかと言うと、それは採るべき対応策が異なってくるからです。現状喝采を受けているのは、経済構造の改革やイノベーションを政治が手動し、日本経済を復活させるというものです。こうした主張は、グローバル化にはむしろ好意的であり、一定の不安感はさておき、必ずしも排外主義的な原理を内包するわけではありません。むしろ、人々の多くは、優秀な外国人材を求めるという基本的な姿勢に対しては一定の理解を示し、外国人「問題」とは、あくまでも、制度の不正利用やただ乗りを防ぐという観点で認識されます。事実、ここ数日、経営・管理ビザの厳格化に伴う資本金要件の増加が、当初指摘されてきた制度の乱用防止にはあまり寄与しない一方、日本で頑張るインドカレー屋に多大な影響を与え、多様なエスニック料理文化が途絶えることを危惧する声や記事を目にしました。現状、排外主義的な施策に対する一定の懸念が認識されてきたのも事実だと思います。この範囲において、私は、政治学者が述べるように、それ自体は民主的である人々の不安を真剣に受け止めつつ、対話で解決策を探ることは可能だと思います。

もっとも、昨今の空気感を考えれば、既存政治が在留外国人「問題」を適正に扱っていないと人々が感じた時、排外主義的ポピュリズムが再び噴出する可能性はくすぶり続けています。直近の選挙でも、外国人の多い地域の一部で、極右的な政党が比例代表で得票を伸ばしたとの気になる報道もあります。私が最も懸念するのは、既存政治に対し人々が再び失望した時、第三波のポピュリズム的な主張が本格的に台頭することです。第三波ポピュリズムにとっての「外国人問題」とは、グローバル化が国家を侵食し、限られた原資が外国人に分配されることを意味します。昨今の奨学金を巡る問題は、排外主義的ポピュリズムの態度をよく示しています。これまで、留学生にも奨学金を支給することは優秀な人材を集める施策だと支持されてきました。それに対し批判者は、原資が限られるなか、なぜ日本人を優先しないのか、と留学生への支給を一種の侵略と捉えるのです。侵略者扱いでは、対話は存在の否定を伴うものとなり、非常に困難となります。

そのため、私は、今必要なことは、人々が漠然と抱える不安が、排外主義的ポピュリズムと結びつかないようにすることだと考えています。そのための対策ですが、第一は、視点の個人化ともいうべき、あくまでも対等な個人間として関係構築や対話です。しばしば日本社会では、あたかも在留外国人、中国人の全代表であるかのように扱われることがあるかと思います。たとえ、悪気がなくてもです。必要なことは、大文字の中国や在留外国人を語り、相手の線引き上で反論するのではなく、個人の経験や感想の範囲でその線引きを問い直し、可能であればその線を外すことです。理性も感情もある普通の人間としての対話と安心感、そしてその記憶の積み重ねが、最終的には対等な関係性を生むのだと思います。もっとも、人々の問題意識を受け取ったところで、在留外国人は政治体の構成員とみなされず、不満に応答するだけの政治的地位を与えられていないこともまた事実です。まして、暴言を吐く相手とも対話しろというつもりもありません。排外主義的な敵意が向けられているならば、これに対しては集合的に対峙するほかないと思います。とりわけ、在留外国人組織やメディアが、誤った情報に対して正しい情報で反証し、また敵意が向けられた在留外国人個人や法人に対する法的、心理的支援などを提供し、声が大きい者が勝つという状況を防ぐことも大切です。そして、最後に、排外主義的な主張をする人を一枚岩のように扱わないことです。以前、川口市のクルド人問題を扱うNHKのドキュメンタリーで、クルド人と個人的にトラブルになり、その鬱憤をネット上に書いたところ、見てもいない人々が大挙してクルド人の悪口を書き炎上するのを見て怖くなり、書き込みをやめた人のインタビューがありました。こうした声を排外主義と同一視すべきではなく、むしろこのドキュメンタリーに見られたように丁寧に拾い上げ、排外主義側に押しやらないことが、結果的に、排外主義的ポピュリズムの需要を切り崩す契機になると思います。

最後に、前半にお話した対中感情との関係についてです。対中感情の悪化は憂慮すべき問題ではあるものの、これは交流の出口側の問題だと私自身は考えています。なぜなら、対中感情が好転し、中国への親近感が増したとしても、それで日本により多くの中国人が住んでほしいとはならないからです。だからこそ、私は交流の入口を塞ぐことにつながる排外主義をより深刻に捉えています。また、もう一点、お伝えしたいことがあります。ポストコロニアリズムの代表的な言葉に、「黒い皮膚、白い仮面」があります。これは、黒人が白人に認められるよう、まるで白人のように振る舞う様子を内面の植民地化と批判的に描いたものです。最近、日本でも、中国に批判的な中国人が良い人という雰囲気が、残念ながら存在します。こうした状況は非常に危うく、何より、決して対等な関係構築とはいえないのです。こうした精神的な無理強いを強いることない真の共生関係を築くことは、日本社会の責任と考えています。そのためにも、私自身は日本人の立場ではありますが、研究者、実務家、そして人として、自分にできることを積み重ねていこうと思います。

長くなりましたが、以上です。静聴いただきありがとうございました。

【文発表原稿】

今日のテーマは、正直に言って、非常にタイムリーです。
高市政権が、近代日本の歴史において記録的な高得票を獲得しました。SNSや在日外国人のコミュニティでは、ほぼ同じ話題が飛び交っています。
これからさらに厳しくなるのではないか。
ビザは取りにくくなるのではないか。
制度はもっと引き締められるのではないか。
その一方で、ネット空間に漂う敵意は、以前から確実に存在していました。
外国人に対する嘲笑、非難、ときには理由のはっきりしない悪意。
少し前の奈良の件は、多くの方がご存じでしょう。あるYouTuberが中国人観光客を追いかけて撮影し、鹿との接触が少し強いと見るや「悪意で蹴った」と糾弾する。動画は切り取られ、拡散され、炎上する。
多くの在日外国人が恐れています。
恐れているのは——たとえ小さなミスであっても、編集され、ネットに晒され、過度に拡大され、その結果、在留資格にまで影響が及ぶのではないかということです。
それは慢性的な心理的緊張です。
私の周囲にも、仕事上では日本名を使う人がいます。
アイデンティティの問題ではありません。
摩擦を減らすため。誤解を避けるため。レッテルを貼られるリスクを減らすためです。
企業コンサルティングの実務の中では、さらに典型的な事例を見ています。
外国人経営者の中には、日本人を代表取締役や取締役として迎え入れる、あるいは名目的に就任してもらうケースがあります。
理由は非常に率直です。「会社をより日本企業らしく見せるため」。
いわば、企業に一枚の“防火壁”を設けるようなものです。これは極めて現実的な戦略です。
しかし率直に言えば、そこにはある種の無力感も含まれており、深く考えると苦笑せざるを得ない部分もあります。
日本名を使うことも、日本人名義を借りることも、本質的には「借名による自己防衛」です。
問題は——排外的な感情が全面的に高まった場合、この戦略で本当に防げるのか。
おそらく、防げないでしょう。
では、日本は本当にポピュリズムと排外主義の大きな波に入ったのでしょうか。
私たちは過度に不安になっているのか、それとも本当に警戒すべき局面なのか。
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一、対中感情——実際に中国人と接触したことのない人が多数を占める
先ほど渡貫が理論的に整理していたが、ここでは「当事者」の立場から少し補足したいと思います。
は三つの概念を区別されました。
対中感情、ポピュリズム、排外主義。
まず対中感情です。
データは明確です。80〜90%の日本人は、中国人と直接接触した経験がなく、中国を訪れたこともありません。多くの感情は、個人的経験に基づくものではなく、日清戦争以来、メディアによって反復的に形成されてきた「想像上の中国」に基づいています。
これは一種の「メディア的伝統」です。
長期的に蓄積されたこのメディア的枠組みが、中国に対する「珍奇」「揶揄」「娯楽化された他者像」を生み出してきました。しかしそれは、実際の相互交流に基づくものではありません。
私は以前、日本のテレビ局で通訳の仕事をしていました。私の経験から言えば、制作側が必ずしも中国人を嫌っているわけではありません。彼らはただ、何が視聴率を取れるかを熟知しているのです。日本の大衆の中国に対する想像に合致する素材を意図的に選び、それを強調する。
その結果、視聴者の中国に対する固定観念が深まる。しかし制作者の個人的敵意がわけではありません。日本の大衆メディア業界構造の問題なのです。
さらに、調査によれば、日本人の中国に対する好感度の上昇は、在日華人との実際の交流経験に基づくことが多いとされています。
ここから容易に導き出される結論があります。
私たちは「民間大使」になるべきだ、という考えです。
実際、私もそうした表現を目にしたことがあります。しかし正直に言えば、それは大きなプレッシャーでもあります。
同時に息苦しさも感じます。
本来、大使とは国家に訓練された専門職であり、制度的支えを持っています。
私たちはただの市民です。国家を代表することも、民族を代表することもできません。私たちは自分自身を代表するだけです。
心理学に「課題の分離」という概念があります。
もし母親が「あなたが結婚しないから食欲がない」と言うなら、それは母親の課題であり、あなたの結婚の問題ではありません。母親が食欲不振を治療できる病院に行けば良いです。
同様に、
メディアが敵意を生むなら、それはメディアの課題。
社会に構造的偏見があるなら、それは制度の課題です。
私たちにできることは、自分の範囲で誠実に生きること。
真面目に働き、学び、可能であれば日本語を磨き、善意を示しつつ、悪意を見抜く力も持つこと。
しかし、「国家イメージを背負う」必要はありません。
渡貫が先言ったように、「普通の人として自然に話す」こと。その自然な対話の積み重ねが、双方に安心感をもたらします。
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二、日本はなぜ外国人を歓迎しながら、移民国家を否認するのか
次に、ポピュリズムと排外主義の区別です。
日本社会はなぜ、多くの外国人労働者を受け入れながら、「移民国家」という呼称を避けるのでしょうか。
理性的なレベルでは、産業界も与党もすでに認識しています。
少子高齢化とグローバル化の中で、外国人労働力は必要不可欠です。
しかし感情レベルでは、「移民国家」という概念は広く受け入れられているとは言えません。
その結果、矛盾した状態が生まれます。
「働きに来ることは歓迎するが、移民とは認めない。」
参政党が街頭で「悪質外国人反対」と叫んだ光景は記憶に新しいでしょう。これはポピュリズムと排外主義が結合した典型的な表現です。理性ではなく、不安に訴える政治言説です。
しかしこれは日本だけの現象ではありません。
欧州の極右勢力の伸長、アメリカの「America First」。世界各地でポピュリズムが広がっています。
では、日本は極端化へ向かっているのでしょうか。
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三、状況は本当にそこまで悪いのか
冷静に見る必要があります。
前回の選挙では「外国人問題」が強く政治化されました。与党は選挙競争の論理の中で一定の引き締め策を打ち出しました。
重要なのは、極右政党の得票率そのものよりも、それが与党にどのような影響を与えたかです。
石破期には与党支持率が低迷し、ポピュリズム勢力の圧力のもとで一部政策を吸収しました。帰化制度の厳格化や経営管理ビザの見直しもその文脈で理解できます。
冗談めかして言えば、「ポピュリズムの道を先に歩き、ポピュリズムの余地をなくす」という戦略です。
しかし今回、高市政権は三分の二を超える議席を獲得しました。
選挙戦の焦点を見ると、外国人問題は中心テーマではありませんでした。
これは何を意味するのでしょうか。
日本政治の重心が、当面は安全保障や経済成長に戻ったということです。
そしてこれらの分野では、産業界の協力が不可欠です。産業界は一貫して外国人材と外国資本を必要としている立場です。
もちろん全面開放ではありません。引き締め政策も継続されています。
しかし基本構造は変わっていません。「労働者は歓迎するが、移民とは認めない。」
私たちは見慣れた枠組みに戻っているのです。
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四、私たちはまた「標的」になるのか
現在、在日外国人が感じている「制度厳格化」は、主として前回選挙の政治的攻防の産物であり、単純に高市政権の一方向的転換とは言えません。
警戒すべきは、明確な排外傾向を持つ政治勢力が政策にどの程度影響を与え続けるかです。
率直に言えば、選挙期間中、外国人問題は確かに「標的」になりました。
日本でも、欧州でも、アメリカでも同様の現象が見られます。
では、私たちは標的になることを避けられるでしょうか。
もしユダヤ人がナチス期ドイツに生まれたとしたら、個人で歴史の悲劇を止められたでしょうか。
おそらくできなかったでしょう。
個人はマクロな政治潮流を左右できません。
歴史は直線的には進みません。
政治気候も常に変化します。
私たちにできることは、制度を理解し、ルールを把握し、法によって自らを守ること。政治的動向に敏感でありながら、過度に恐れないこと。
そして可能であれば、ボランティア活動や地域貢献にも参加すること。
ご清聴ありがとうございました。

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